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2006年6月27日 (火)

8000m峰

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 マッキンリー  (20 Sept.1989  北極回りアンカレッジ経由 成田行JAL機から)

【8000m峰】

 品のよい老婦人が出てきた。 「 勝手が分かっていますから 」 と言うとキーを渡してくれた。 群馬県沼田市 ・ 山田昇ヒマラヤ資料館。 栄光と死と、かつて強靭な意志をもってヒマラヤ8000m峰に挑んだクライマーたちがいた。
 昭和53年(1978年)、この年、ヒマラヤで死んだ日本人クライマーの数は、小暮ら群馬岳連隊の四人を含む六件、十三人に達した。 最強のクライマーと呼ばれた山田昇は、この時の群馬岳連隊・ダウラギリⅠ峰(8167m)を始めとし、エベレストを含む8000m峰、九座の登頂を果たすが、彼もまた平成元年(1989年)、冬のアラスカ・マッキリー(6149m)で小松、三枝とともに遭難死する。
 ―― もともと、そこは人間が生きることを許された場所ではない。 小暮の妻幸枝があげた名前のうち、八木原圀明、宮崎勉の二人を除いてすべて世を去っている。 皆、山に逝った。 是も非もない。
  「これから宮崎さんのペンションに行きます」 と言うと、老婦人はくれぐれもよろしくお伝えをと言い、いつまでも見送ってくれた。

(平成18年6月24日 群馬県沼田市 山田昇ヒマラヤ資料館にて)

●参考文献
  佐瀬 稔 著 『 ヒマラヤを駆け抜けた男   山田昇の青春譜 』

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